horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

昭和三十年代主義

昭和三十年代主義―もう成長しない日本

昭和三十年代主義―もう成長しない日本

 通読の機会を得て、浅羽通明はこの際ちゃんと批判(できるかどうかだが)しとかないとマズイと思えたので、早速取りかかるとしよう。
 まずアイドルファン・プロパーから、かかるか。中森明夫のような下等物件のほざく「モーニング娘。を最後に歌うアイドルから映画女優アイドルへ」という流れが、「昭和三十年代主義」へ時代が動いている現象とされるのだが、無知もたいがいにしろといいたい。むしろモーニング娘。こそ、小室系というバブル期音楽シーンのアンチテーゼとして、著者の立場とすれば肯定しなければならないものなのに。中森のような輩は、アイドルとして何がよいものかという確信を持つに足る「趣味」を持っていないから、新しいものをとにかく肯定することしかできない。要するに、これが新しくそれはもう古いと扇動する「トレンド」広告屋の(みたいなものを批判してるつもりで)、類が類を呼んで自らも同類にすぎない内実を暴露してしまっている。
 同じように宮部みゆきの一人勝ちという(数字的な意味にすぎない)ギョーカイ事情に便乗して、それ以外の新本格探偵小説を何気に全否定しているのも、この方面のプロパーから一言あってしかるべきだが、筆者はその任にないので口をつぐむ。ただ、ドストエフスキーの昔から文学化されている全能感犯罪者を現代の徴候とみなすのはちがうだろう。コリン・ウィルソンのいわゆるアウトサイダーなのであって、これがあらゆる分野の天才と紙一重に連続殺人者になってしまうことを、この作家は主要テーマとしていた。浅羽の論証は、バブル以前いや高度成長以前から近代に普遍的な現象を我田引水した、こじつけにすぎない。
 「昭和三十年代主義」の理想社会の例とされる筒井康隆の『美藝公』だって、筆者は未読だが平岡正明氏の論考によれば(これ自体だいぶ昔に読んだので記憶は曖昧だが)、あるべき(だった)プロレタリアート独裁の寓話としての「お役者衆独裁」を描いていた(らしい)のであって、これは高度成長(短期的には「所得倍増」)のために大衆が革命を断念した結果、潰え去った夢だという(平岡氏の)肝心な認識(だったと筆者の理解する)が欠けている。しかしこの「独裁」は、あるべきでない独裁に容易に頽落したであろう。まさしく映画関係者でもある金正日をおちょくった同じ作者の短編小説「首長ティンブクの尊厳」(『エンガッツィオ司令塔 (文春文庫)』所収)と表裏一体なのである。この短編にしたって、(『美藝公』で自らの否定した)高度成長後の日本の豊かさが北朝鮮を見下す優越感の根拠にすぎず、平岡氏が買いかぶるほど、この作家が大したものと思えない。だいたい浅羽は主人公「美藝公」が、宮部みゆきの小説の犯罪者と実は同類な「キャラ」なのを(どちらも未読にして筆者には直感できるが)気づいてないんだろうな。
 当時なら革命を我慢しなければ築けたかもしれない世界を、今から目標とするのは単なるアナクロニズムないし古物フェティシズムだ。本来ならば、当時断念した革命を断念する根拠がもはやなくなったとして、この新しい段階から「昭和三十年代主義」のように後ろ向きでない革命をあらためて始めることを提唱するのがスジではないか。