horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

三島由紀夫と一九七〇年

三島由紀夫と一九七〇年

三島由紀夫と一九七〇年

 昨年の命日に出版されていたが、最近まで知らず店頭で発見して購入した。未公開映画「ミシマ」のDVDが付録で、これは先に紹介済。
 本文は板坂剛鈴木邦男という、いずれも知る人ぞ知る異端人物だが、二人の対談で、内容はともかく語り口は板坂氏がボケて鈴木氏がツッコむ漫才のようなスタイルでおもしろく読みやすい。
 内容的にも、三島が一九七〇年以後も生きていたら連合赤軍事件を小説にしただろうという鈴木氏の言葉に虚を突かれたというか盲点だったが、確かにあの事件の登場人物は三島の小説世界向きだなあと俄然ナットクした。
 高木彬光神曲地獄篇』のような、利己的な指導者が有為の青年を恣意的に凄惨な死に追いやって自己は責任を取ろうとしない(一般化すれば大東亜戦争からその後は東電の原発事故まで一貫する)非道無慚を糾弾する勧善懲悪の通俗道徳的な作品(笠井潔『テロルの現象学』のような思想書であっても基本はそう)を超えた文学世界が読めたのに惜しかったなあ。
 一方の板坂氏は、対談でボケてるだけじゃなく序文的な文章でこういうことも言っている。「自衛隊の海外派兵を可能にする政治状況」や「在日米軍に対して、その移転費用まで負担させられるという“国辱”外交」、「安保条約は存続の成否を問われることなく生き続けている」と列挙して、

この現象は純文学の衰退と無縁ではないような気がするのである。文学に限らず、あらゆるジャンルで横行するエンタテインメント優先志向は、難しいことは考えなくてもいい、今が楽しきゃいい、という思考に基づいて形成されている。
 当然、自分を検証する必要も感じない“新人類”(この名称も七〇年以降の日本の大衆に対して随分用いられたものである)ばかりが育成されることになった。
 そういう意味で、三島文学が最後の純文学であったという私の主張に異を唱える人はいないであろうと信じる。七〇年以降も純文学もどきは数多く輩出されたが、大衆の側が彼らの文学的営為を“純文学”として受け入れる用意がなかった。芸術も革命も、行為と認識の連動から成立するものだから、認識を伴わない行為は、どれほど衝撃が大きかったとしても、無意味な徒労として歴史に残る他はない。

 これで思い出したのが、久生十蘭の従軍日記で、谷崎潤一郎の短編小説の感想を記していて、技術を超えた「精神」が「おれにもわかる」ということを書いていたことだ。技術で卓越しながら野崎六助『捕物帖の百年』でも、その反米小説書き換えを検証して「思想のない作家」とされている彼が、江戸川乱歩と一緒に岩波文庫入りしてるのも板坂氏の言うような「現象」なのであろう。にしても、葦の髄から天井を覗くように、自己の得意とする小説技術の限界に谷崎の精神を窺知しうるだけ純文学の生きていた時代の人だった。谷崎の精神を窺知し得ないばかりか、そのことに居直って通俗的評伝を書くような「学者」というものも輩出される現在において見れば。