horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

そもそも著者に忘却されてないが(笑)

竹内洋清水幾太郎の覇権と忘却』

 著者の「教養の没落」テーマの一環だが、著者に欠けてるのは教養の経済的地盤ではないか。高度経済成長期こそが清水幾太郎教養主義覇権の根拠なのである。清水編集の中公世界の名著「コント・スペンサー」巻を読み進むにつれ、彼らのような独学者の(今ではほぼ無効になった)教養体系が19世紀ヨーロッパの経済的覇権の上に成り立ったことが(今では)明らかになる。
 それらがブヴァールとペキュシェを経てハンス・カストルプにおいて第一次大戦砲煙弾雨のうちに肉体的にも霧消してしまった上にも、その後のメディア環境の変化に伴う大衆社会化の中にその余燼も消え去っていくかに見える(のが著者のテーマだ)が、それ以上にローカルな経済的覇権の終わりに伴っていることを見なければならない。コントやスペンサーの言説がアシモフ小松左京の科学啓蒙著作に似ているのもその伝で、それらもそれぞれの環境でヴェトナム敗戦までとバブル経済破裂まで有効だった教養なのである。
 そういう私個人としては、永井荷風における江戸文化(とその継続としての明治文化)みたいに愛惜して読んでいるのだが(笑)。