horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

通俗谷崎論と通俗に徹して通俗を超える文化史

谷崎潤一郎伝―堂々たる人生

谷崎潤一郎伝―堂々たる人生

 筆者が「細雪」を読んだのは魚崎でだった。そこで初めて一人暮らしを始めたのが母の地縁に頼ったものだったから、実態としては過干渉で一緒にいれば煩わしくて敵わない母から離れて抽象的に、土地に象徴された母性を恋うセンチメントに浸って、普通ならなかなか読めないような高級な本を読んだというわけである。
 初期の谷崎はこのような特殊事情必要なく、都会に独居してくすぼっているような若い男には普遍的なテーマを扱う点で、乱歩や横溝の変態小説と共通したものだ。だが、著者・小谷野敦の云うように乱歩は谷崎に逆(?)「影響の不安」を感じさせる存在だったか? これは大いに疑問だ。乱歩は近代の暗黒を面白がって享楽しているに過ぎないが、谷崎にはそれだけではない惧れと懐疑が深刻にあるわけで、これが後に、お子様向けの「怪人二十面相」になるのとノーベル文学賞候補の「細雪」になるのとの分岐になっている。自己の芸術に自負のあった谷崎であればこそ、乱歩とのこのちがいにも自覚的だっただろう。この見極めすらない「学者」の鑑識眼とはどうしたものだろうか。まあ、反証可能な事実の集積だけが「学者」の本分だとする著者の持論のしからしむるところではあるかもしれない。著者が日頃バカにする近頃の学生には、実にまさしく相応しい先生ではないのか。
 ジャン=フランソワ・リオタールが著者によると大衆哲学者であるならば、その段ではなく通俗作家なのであろうコリン・ウィルソンの書く評伝に似ているといえば、気を悪くするにちがいないと知ってそう書いたが、筆者はコリン・ウィルソンのファンだから、むしろ誉めて通俗読み物として面白かったといっているのである。著者の「学者」という自意識がネタとしてではなく本当に本気なら疑問符がつくというだけで。「大谷崎」の由来も「長男としての谷崎」につなげていく話の展開としては面白いのだが、では谷崎精二は「小谷崎」と一般にいわれたことがあったのだろうか。
1688年―バロックの世界史像

1688年―バロックの世界史像

 コリン・ウィルソンも好きだが、ジャレド・ダイアモンドとか、こういうベストセラーになるような英米学者の読み物が好きである。日本近世を外側から見てみようと読んだ、この本も面白かった。1688年という時点のバロック文化の同時代性において世界史をローカルの個別にみる方法は、日本では別段学者でもない海野弘氏の文化史的著作に通じるものだ。海野弘氏の本はどれを読んでもいいから、いっそ全部読むべき(自分もまだ全部は読んでないが)。