horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

初詣

 「明」の駅を南側に出ると噴水のある広場があって、その先の小規模な(それほどいかがわしくない)歓楽街とのあいだに一方通行の細い道路が通っている。これを西に向かい、スクランブル交差点を経て少し行くと二股に道が分かれる。その分かれ目に突き当たる地点に枝振りのいい桜の樹を背負って二つ小さな祠が並んでいる。それぞれ大明神たる姫神様であって、今年はここに参った。ちなみに、道はすぐ先でまた一本に戻り、祠と樹を迂回したためにできた街区が二股道に挟まれ川の中洲のようになっている(調べてみると、道が一本に戻るとは思い込みで事実は別れたまま。追記)。
 桜の樹の下には死体が埋まっているといったのは梶井基次郎だったか。この姫神二柱は、この場所で殺された生贄の少女ふたりだったのではないのかな。そんなことを思うのも、先日亡くなった朝倉喬司著「芸能の始原に向かって」を、実家から持ち帰り新刊時購読以来四半世紀ぶりに読み返したからだ。その表題書き下ろしエッセイで、いにしえにあった祭儀としての女殺しを、生物進化史に発し古代神話、民俗芸能、現代の犯罪奇談に通底するオブセッションとして、むろん実証はできようもないが透徹した詩的直観で読み解いていくスリリングさに、若い頃にも増してシビレた(のは、それだけでなくこれを総論とする各論をあわせた本全体にわたってだ、もちろん)。平岡正明とともに、吉本隆明谷川雁の自立主義を最高の頂部で越えて継承した著者は、兄事した平岡のすぐ後を追うように同じ年内に亡くなってしまったのだった。
 型どおりに鈴を鳴らし、拍手を打って頭を下げ何を祈るでもなく手を合わす。それぞれ10円づつの賽銭では、おそらく移転・伐採を企図した者の急死などあったにちがいない、道路を迂回させるほどの怨念を鎮めようもないかも知れないが、賽銭箱入り口に引っかかっていた前の参拝者の1円玉よりは10倍多いから、こらえてつかあさい。