horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

プロヴァンスの少女―ミレイユ

プロヴァンスの少女―ミレイユ (岩波文庫 赤 570-1)

プロヴァンスの少女―ミレイユ (岩波文庫 赤 570-1)

 シャルル・モーラスの『ミストラル智慧』を読んで、実家に蔵書としてあるのを思い出し、正月帰省した時に持ち帰って読んだ。挿んであったレシートを見ると84年購入。30年も寝かしておいて初読だが、そんなことは筆者に限ると珍しくもない。
 モーラスは『ヴェネチアの恋人たち』も読んでいるので翻訳された著書の全部を読んだことになるが、邦語翻訳の限界内では両著書が矛盾したようにも見える。というのは、『ヴェネチアの恋人たち』は、ミュッセをその自分勝手なロマン主義恋愛で傷つけるジョルジュ・サンドを論難する書なのだが、『ミストラル智慧』という『ミレイユ』の著者に対する頌徳の辞を集めた書の、その頌徳の肝心である『ミレイユ』が、(本来韻文だが)散文としてしか訳され得なかった(たぶん原著ノーベル文学受賞と同時代の土井晩翠でもないと邦語韻文にうつすのは無理だろう)ここでは、ジョルジュ・サンドの田園小説とさほど違いは感じられないのである。
 たしかに、近代的な散文で書かれたサンドのヒロインのほうが自由奔放であるし、カトリック色の強い『ミレイユ』の悲劇的な結末が、ミストラルが求めたサンドの序文を彼女が拒絶した理由であったかもしれない。そうしてこれが、カトリック王党派のモーラスが民主主義者のサンドを否定し封建的な地方分権論者ミストラルを称揚する核心であるとも思われるが、何かそれは革マル派の「反スターリン主義」で、宮本百合子の(ミュッセに比すべき)犠牲において日本型スターリン宮本顕治を論難する高知聡『宮本顕治―批判的評伝』と非常によく似た極めて党派的なものに見える。
 あるいはこの翻訳によって生じた、おそらく誤解は、モーラスの側から見れば、たとえばわれわれが、海外においてハロプロのような真実のアイドルと、闇社会のマネーロンダリングと枕接待の置屋でしかない似非アイドルが区別されえずに受容されてしまう(サブカルチャーの年季の足りないアジア諸国においてそれが著しい)ことに苛立ちを覚えるのと同断であるかもしれない。
 ついでに、CDジャーナル2月号の『Berryzマンション9階」評者の用語の誤りを正しておく。「ももち!許してにゃん♡体操」を「牧歌的」とするのは正しくない。牧歌(パストラル)とは、この『ミレイユ』(途中まで)や℃-uteの「君は自転車 私は電車で帰宅」のような、田舎の純朴な少年少女の恋を描いて都会(一義的にはローマ)の人士のエキゾチックな好尚となるものをいうのだ。どちらかといえば、「童謡(わらべうた)的」とするのが正しい。