horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

片山杜秀『見果てぬ日本: 司馬遼太郎・小津安二郎・小松左京の挑戦』

 たぶん著者はじめての文芸評論(小津も映像にしろ作家論)。小松が論じられるのに惹かれて読んだのだが…。

 小津は過去に憧れなかった。ゆえに歴史物には靡(ルビ:なび)かなかった。未来の理想を確定しなかった。ゆえに黒澤のような力強い映画を撮らなかった。ただ、いつか本当に来る五分のために小津は待っているのだ。それゆえに小津は今もアクチュアルである。

 結語の直前の議論の総括で、過去に憧れた(だけで伝統を否定する)司馬や、(今や原発事故で破綻した)未来の理想を追求した小松より小津が「今もアクチュアル」だというわけである(「本当に来る五分」とは小津によると戦闘の最後で日本兵が中国兵に勝つ五分間)。「今も」ではなく「今となっては」ではないのか。
 戦中や、その結果廃墟となった戦後の覚悟、気構えを「今となっては」説くしかないのは、年長世代としていささか無責任ではないか。自らの世代が(自身で槍玉に挙げた)小松の理想に追随してきた結果こうなったことに無責任でいいのだろうか。
 小松や司馬の作品からその思想を抽出して、その矛盾を突く鋭さはさすが思想史家ではあるし、他ならぬその司馬遼太郎賞の受賞者にして果敢だ。そこは天晴れなのであるけれど、さように批判されるこの二人は、ただ小津のように現在に「自律」したのでなく、自己の実存を賭けて過去に「根源」を求めたり未来に「決断」したりしたのだ(「」内は著者の引くティリッヒの用語)。
 Ozuは世界で評価されるらしいが、それはbonsai(盆栽)みたいなものではないか。邦画がつまらなくなったのは蓮実重彦逆張り小津評価が元凶だと喝破した笠井潔氏に与したい。