horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

発情装置

発情装置―エロスのシナリオ

発情装置―エロスのシナリオ

 俺(今回一人称はあえてこれで)が、この著者を評価するといったら意外とされる向きもあるかもしれない。平岡正明エピゴーネンらしくマッチョイズムを気取った書き方もしてるからな。およそそういうアティテュードを厳しく批判するような立場(たとえば平岡御大は、いつものように俺一人称で書いた『大落語』上下巻の法政大学出版局からの上梓に法大の女教授から難をつけられた)つまりフェミニズムの代表(自分ではあえてそう名乗らないとご謙遜だが)とされるような著者を、なんでみんあみが紹介するわけ?
 先に紹介した絓秀実著で「サブカル第三世界」ってフレーズがあって感心した記憶があったのだが、本を見返してみても見当たらない。勘違いか? 実感を言い当てられた満足、まさしくそう思っているにちがいないわけで、われわれの表現はすなわち第三世界からの進駐だと自負する。それは女やゲイの男社会への進駐と軌を一にするのである。オタクという蔑視語を、「ニガ」や「クィア」と同じようにあえて自称するスタイル(もあり)という共通点からして(女に関してはその例を知らないが「腐女子」ってのが近いか?)。
 俺はアイドルファンとして、多くアイドル愛好者であるゲイというものに関心を持ち、彼らとわれわれの相違、さらに共闘の可能性があるかと考えてきた。だから、フェミニズムとゲイの連帯をさぐるといった本書に取り上げられたテーマを興味深く読んだ。そういうポリティカルなオタクという立場もありうるのに、「政治から撤退したいおたく世代のひよわなつぶやき」などと一緒くたに片づけないでくれ。「おたく世代」などというものこそ(次に例も挙げる)オタク差別の急先鋒であるからだ。
 単身者(のちに著者によって「おひとりさま」とテーマ化される)のライフスタイルとしてのオタク、これを(自己)対象としたオタク学が、フェミニズムやゲイ・スタディーズと同様にありうるとすれば(岡田斗司夫のようなものは問題外)、本田透氏の著書に萌芽がみられる。あるいは古くは浅羽通明『天使の王国』所収の一編「『おたく』に死す―富沢雅彦の生涯」という感動的なものがあるが、この後に浅羽はこの生き方を反面教師として転向してしまうので台無しとはいえる(それでもその片鱗は伝わるリンクを貼っておく)。