- 作者: アルノ・ボルスト,藤代幸一
- 出版社/メーカー: 新泉社
- 発売日: 1975
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<現代思想>のバックナンバーで94年6月号「特集・インド的なるもの」というのを例によって全巻読んで、その中に冨原眞弓「南仏のシモーヌ・ヴェーユ カタリ派とオク語地方のインスピレーションの教えるもの」という記事があり興味を持ったわけだが…(ちなみにこの記事で注に引かれてる本書は仏語版)。
ヴェイユの思い入れと違って、この原著者の
われわれのなしうるすべては―さらに多くをなすべきであるが―彼ら(引用者注・カタリ派)が斥けた道程、つまり「万物を通して万物を導く認識を理解する」というヘラクレイトスの目標に向かっての限りない道程である。
という、それ自体は学問の自立をうたって?格調高い結びのフレーズがいささか白々しい。(本文を読めばなおさら)自身の属する西欧文明と異質の起源を持つ宗教として排斥する魂胆がよろしくない。そもそも同情がないのだ。むしろ汎ユーラシア的な普遍性を感じるんだけどなー極東の、最近おなくなりになられたらしい岡田明憲先生に私淑していた者としては(もちろん同情もある)。
それ自体が謎のこのウェブページ(コンテンツとして他には切れたリンクしかない)はなかなか示唆的なのだが、この「吉本隆明の謎」とは端的に(吉本に限らない)新左翼性と思える。マニ教→ボゴミル派→カタリ派という二元論宗教の現世否定の過激さが、戦後主体性論をくぐった日本の新左翼に通底していて、「初期吉本の戦闘性」(平岡正明)とはまさにそのエースだったことによる。