horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

郷土誌家としての稲垣足穂

 図書館にあった『現代思想 2008年8月臨時増刊号[rakuten:book:13024821:title]』というものをパラパラめくっていると、上野俊哉助教授がさも自分がアウトサイダーか何かのように花森安治のインサイダーぶりを見下して書いていて、不快だった。花森のそういう面は桜井哲夫可能性としての「戦後」―日本人は廃墟からどのように「自由」を追求したか (平凡社ライブラリー)』を読んで承知しているし、自分もアラジンの石油ストーブのある家で『暮らしの手帖』を購読する親に反抗して育ったから、それの大本であるオジサンに反発もなしとしないが、桜井著がその否定面を指摘しつつ花森の「可能性」を評価するのもわかる(ただ、それも朝日新聞の書評でウォルフレンを叩いた桜井氏の「保守性」をあらわしていると見ることもできよう)。それよりも個人的には、『実存哲学の余白 (1975年) (多留保集)』の月報で平岡正明氏に、足穂同様の「在日宇宙人」的な神戸出身者として、淀川長治油井正一とともに花森安治が挙げられているのを見つけて、くすぐられた愛郷心が許さないのだ。これに収められた「金色の龕」「伏見山物語」といった関西に移り住んで後の郷土誌的な仕事が、モダニズムの作家としてしか知らなかったので新鮮に感じられた、という以上に、すぐれている、真面目(しんめんもく)とさえいえるんじゃないか。後者がまた偶然、個人的な本籍地近くを扱っているからいうわけではないが。この系統では、『彼等(they) (河出文庫)』にも収録されているようだが地元書店から出した単行本で読んだ『明石 (1963年)』がまたいい。この作家の郷土性は、初期のモダニズム小説ですら、神戸という土地柄を離れては成り立たないものだった。なお、「実存哲学の余白」という表題作周辺の時期を、堀切直人愚者の飛行術』収録の足穂論は初期のピークから晩年の円熟に至る過渡期にすぎないとしているが、カトリシズムの倫理に沿ったモダニズムの終末論がポール・ヴィリリオみたいで興味深かった。

【重大な訂正】上記で当初、上野俊哉氏を吉見俊哉氏と混同しておりました。訂正しましたが既に読まれた読者もいたので、御両名様にお詫び申し上げます。