horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

織田信長と越前一向一揆

織田信長と越前一向一揆

織田信長と越前一向一揆

 利家は前田又左エ門としてしか出ていないが。一揆に参加したか否かも問わずにそこにいるだけで殺すというような虐殺の下手人のひとりである。この本で信長はヒトラースターリンに例えられているが、ルーズヴェルトトルーマンも日本人により「身近な」虐殺者であったはずだ。信長がヒトラーなら利家はさしずめアイヒマンだが、同じように責任を問われる法廷に立たされたとしても「主君の命に従ったまでで侍の義務だ」とアイヒマンと同じようなことを言ったに違いない。
 瀧音能之著で巨木信仰文化、村井康彦著で巨石信仰文化と推定された、出雲から日本海沿いに北陸まで山陽は吉備から諏訪を東端とするまでの地域の基底にある原始信仰が、大社の柱や土台としてその底に沈められるような挫折の経験を、一向宗の中世革命の敗北からこれも類推できるのではないだろうか。
 革命といっても、他宗派の寺院を襲撃して破壊するのはまだしも、信長がヒトラーならこちらこそがスターリンかというような、農民からなる一揆勢が武士の攻撃に怖気づいて戦線から離脱しようとするのを後方で指揮の本願寺坊官が忿怒して逃走者を次々斬り捨てるなどは、ジュード・ロウ主演の「スターリングラード」でろくに小銃も持たさずに戦場に送り込んだ新兵がドイツ軍の弾幕から逃げ帰ってくるのを後方から(前線より重装備の)マキシム重機関銃で射殺する赤軍コミッサールを彷彿とさせた。そのような突撃(特攻)を下っ端に強いていながら、戦局の挽回が不可能となるとさっさと降伏(よくいえば路線変更)して自らはちゃっかり延命する上層部というものは、のちの大東亜戦争・戦前戦後の共産党非合法闘争までいつも同じである。
 郷土史家の著者の執念の力作だが、本文むすびの言葉が「いまは、このような狂犬のごとき侵入者の犠牲になった膨大な越前民衆のご冥福を、ただただお祈りするばかりである。」とあるのは、(以前にも紹介したが)他ならぬ一向宗の民衆に対して間違った用語(参照)で、画龍点睛がいささかまずかった。