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川村湊『戦後批評論』所収「保田與重郎の亡霊」補論一は福田和也『保田與重郎と昭和の御代』を主に批判したものだが、その末尾に追い書きのように括弧つきで
(山城むつみの保田與重郎論は、単純にいってしまうと、『万葉集の精神』の中に、保田の時局に対する批判と、政治状況についての情勢論を読みとろうとするものである。保田與重郎は浮き世離れをした「日本主義者」でも「皇国主義者」でもなかった。時局と情勢を読みながら、彼にとっては批評はまた実践の書でもあったのである。もちろん、それは現実の政治を動かすことはほとんどといっていいほどなかったのだが)
とある。この山城氏の論(未読)にある(らしい)見解と同じような読後感を持った。菅原潤『弁証法とイロニー』には、二・二六事件の当夜、保田は萩原朔太郎宅に来泊していた(この書で朔太郎は保田と田辺元をつなぐリンク的人物)事実が示されて(そのソースである萩原葉子が採録しない)当夜ふたりの対話が思想的にも文学的にも興味深いみたいなことが書いてあったが、保田が皇道派の叛乱将校支持だったのは当人の戦後の著述から間違いなく、この(ほぼ)主著(?)でも長屋王や橘奈良麻呂なんかへの同情と「藤原氏の擅権過程の陰謀事件」に諷していると読める。
菅原著によれば三木清(保田によると「ミキセイ」)は初期保田に影響を与えたらしいのだが、この時点ではもう近衛新体制派の三木とは思想的に真っ向対立したものだろうか。近衛なんて直球ど真ん中に藤原氏であるわけだし。三木も三木なりに時局の中で社会主義の志を実現しようとしたらしいのだが。
しかしやはり表面上(?)の日本主義〜皇国主義は今ではいっそう浮き世離れして読みにくい。現今ネトウヨ風情には一行も読解できまい。私にしても「双調平家」でこの時代の(フィクションなりに)政治史を掴んでようやく保田が何を言わんとするか、つまり柄谷行人の四象限で表わすと交換様式A(「皇神の道義」*1)で交換様式B(天平の唐様体制ないし藤原氏の擅権に諷した統制派翼賛政治)を撃とうとしてるんだなくらいに理解できる。しかし当時の現実の政治を動かすことはなかったばかりでなく、加担者として終戦直後の杉浦明平や前掲川村氏などから弾劾や批判を受けるようなものなのは、何かソ連「収容所群島」での同囚トロツキストにソルジェニーツィンが何の同情も持たず軽蔑あるのみだったのと位相が似ている(彼自身が当初それに近い立場だったらしいだけにも)。
さて最後に小ネタをひとつ。保田の万葉解釈がおおよそ依拠する鹿持雅澄の(万葉以前)上代歌謡調作歌が引用されていて(P.259)
かぐはしききみのたまでのかをかげばおぼこをとめのほとのかぞする
これについて
この一首は雅澄の歌人としての天稟を十分に示す如き佳吟であつて、彼の考へた美に對する思想と、古代の道の恢復といふ意味とあはせて美しく實證してゐる。どのやうな撥剌生新な空想にも、又どのやうな可憐で美しい想像にも耐へる作と云へよう。
などといっている(笑)。