horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

 『憂国のラスプーチン』原作は必ずしもこの本に限らないのだが、おおむねそうだとして未読だったので、どこのBOにも105円であるものを20%OFFセールの時に84円で買ってきて読んだ。
 この本にない漫画でのエピソードで拘禁中、内村剛介『生き急ぐ』(三省堂新書版。中公文庫でも講談社文芸文庫でもなく。いずれも新刊入手不可)を読むシーンがある。国家の政治裁判に対峙する自らの先蹤を示す意図だろうか、たぶんその意図とは違った意味でも先蹤だと思われる。
 シベリア抑留10年は無論、拘禁512日にしても確かにその事実は重い、にしても、今までこういうことを言った人はいないんじゃないかと思うが、そういう中にも何か「知識人の気楽さ」を感じてしまうのだ。むしろゲーペーウーだったり東京地検特捜部の取り調べに丁々発止と応じる(と自らを描く)御両人には、「知識人のユートピア」を享受しているとすら思える。
 それなりに優秀な学校を出て、そのまま学生生活とそれほど断絶のない職場で、ふつう日本社会ではありがちな「理屈を言うな!」と凹まされる機会もなくきた人が、突然ふつうの人がとっくに味わってるような理不尽に直面して(それでも得意のロシア語で相手になるソ連人だったりエリート検事だったり、ふつうの日本人の上司より話のわかる存在に)「俺たちの神経もいたわってくれ」とか「難しい人だ」と言われたのを、スターリン主義厚顔無恥と非難したり、いやそうは言いながら知的な議論を戦わせることができたとするのも、ひとりで空回りしている知識人がいなされてるだけなんじゃないか。
 こういう批判は、呉智英浅羽通明ラインの得意とするところであるはずだが、その「現実」主義の赴くところ「売れてるものは正しい」(主に後者。前者はやっかむ方が多いかな)となって、その方法論をこの著者にまで適用しぬくことは到底できまい。かかる通俗的現実主義の対蹠に千坂恭二氏の革命的空論主義があって相互に解毒剤ともなるが、こちらの評価と批判はまたの機会に。とりあえず次回は、「国策捜査」とはいささかちがう根拠で佐藤優氏に有罪判決を下してみるつもりだ。