horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

妖精と妖怪のあいだ

妖精と妖怪のあいだ―平林たい子伝 (文春文庫)

妖精と妖怪のあいだ―平林たい子伝 (文春文庫)

 現代日本で本を読む独身女性というそれだけでもうアウトサイダーとなってる人たちの「コリン・ウィルソン」みたいな存在だろうか。本人のくわしい自伝があるので評伝的な論じ方はそのコピペになりそうだから避けるみたいなことを、集英社版日本文学全集46『平林たい子集』の解説者・佐伯彰一もいっていて、れっきとした評伝であるこれもそうなりがちなところはあるが、ちゃんと(悪く書かれている)元夫たちの手記や著作と照らし合わせる等の客観性を持たせる作業も怠ってないし、尼で低評点で悪くいわれるほどのこともない。
 現代ではほぼ忘れられたすぐれた作家をこうして手に届きやすい形で掘り起こしたこと自体を多としたい。前記シリーズ本に一部が収録された自伝『砂漠の花』で悪く書かれる人たちは(手心を加えて)仮名になっているため、この本で全部実名で書きなおされてるのもありがたい。一時同棲したダダイストの画家が田河水泡だったとはねえ…。彼女は当時のアナキスト社会主義サークルの(今でいう)オタサーの姫だったわけで、その合宿に紅一点で参加して、雑魚寝してるうちに壺井繁治に挑まれるが彼が淋病だと聞いていたので拒否して、彼を淋病だといった男(田河の次の次の男)に許してしまう。どっちも仮名になってるが、後に壺井繁治壺井栄の夫として近所付き合いするようになると実名で出てくるのがオカシイ。予備知識がないと気づきもできないが、書いてる方は過去の醜行をそしらぬふりで付き合ってんだよねえ、これ。
 『愛情旅行』という50年代の(新聞連載)小説を読んだことは前に書いたが、純然たるフィクションに見えて実はこれも昭和十年代の実体験に基づくゆえのナマナマしさだと(本書で指摘してるわけではなく)気づいた。自分をモデルにヒロインを文具店経営で裕福な美人マダムとしたのは美化と同時に自嘲も混ざってるが、現実には社会主義者の夫を保守党の万年落選候補としたのはいささか悪意が込められている。妻のカネを当てにした「選挙運動」も事実なんだが…。小説では夫の学校の後輩となってるが、事実としては運動の後輩だった社会党候補で当選する、ヒロインがよろめいていく青年が江田三郎だったとはね。
 本人や当時の評価?ほど、彼女の「大衆文学」は悪くないと思う。初期のエピソードとしてしかないが、<新青年>に書いていた探偵小説も読んでみたい。編集長の森下雨村に探偵小説専業を勧められて断ったらしいけど。C・L・ムーアと併読してるとも書いたが、同時代の<ウィアード・テイルズ>でスペースオペラの枠の中で女性の性愛(というよりは性欲か)を象徴的に表現した作品は、ありえた方向性を示しているように思うのだ。また佐伯彰一も推奨する短編「鬼子母神」の、幼女を(自己への)サクリファイスに捧げているような表現に、神話的な想像力で通底するところがなくもない。たぶん現在の文学観ではムーアのほうが評価されると思えるのだが、それもその幻想の克明な描写はジュリアン・グラックを想起させられたからだ。
 <新青年>で勧められるままに探偵小説に専念していれば戦後ぽっと出の松本清張なんぞに…って苦々しさもあったのかもしれないが、清張を超えようとしたらジュリア・クリステヴァ(をモデルとした人物)を「母神」に擬してしまう笠井潔『吸血鬼と精神分析』くらいが求められる。彼女の縛られていた古い文学観でそれが(可能性は示したが)本当に可能だったかどうか。ちなみにクリステヴァの自伝小説『サムライたち』もやはり面白い。
 あるいは(現実には擦れ違ったが)稲垣足穂と出会っていたら(交流圏においては可能性としてなくはなかったのだ)、C・L・ムーアばりの幻想小説もありえたかもしれない。そうならず妖精でも妖怪でもなく人間でしかなかったことが痛恨なのだ。ついでにこんなことをいえば御本人は怒るかもしれないが、現代の稲垣足穂千坂恭二氏であると思う。