horror of mean army ?

淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬスマのセンチネル

万博批判が鍵だったな(今読んでる)

吉見俊哉『大予言 「歴史の尺度」が示す未来』

 著者がどういうことをやってる人なのか近著の『アフター・カルチュラル・スタディーズ』を読んで知っていたが(たしかずっと以前に『親米と反米』も読んでるが…)これほど自分と関心の接近した人とは知らなかった。
 「ポスコロ・カルスタ」って一緒くたに軽い語感で馬鹿にされがち(なのを苦に病んでる風もある)無駄に学内政治力もあって東大副学長なんて大学人として位人臣を極める一歩手前まで行ったのがかえって言論人としてはアゲインストなのか知らない(蓮実重彦ほど大御所だとまた別なんだろうけど)イマイチ評価されてないかも?だが、これは文明史論として初心者にもわかりやすく諸説を総合して説得的な結論を提出した名著である。
 このタイトルのセンスとかも堺屋太一のビジネス本みたいだが実は堺屋も文明史論者なのであって、それを批判的に読んできた自分の考えと(結論だけは)おおよそ一致している。もちろん、こんなに学的網羅的に結論することは自分にはできるはずもなかったが(苦笑)。結語を引用しておく。

 このように、数百年単位でグローバルに変動する歴史は、様々な現場で繰り返される世代的な連環のなかに数十年単位で循環するローカルな歴史を形成していきます。本書もそうしたほとんど無意識的な次元で作動してきた連環から浮上した一つの所産に過ぎないのかも知れません。二五年という歴史の尺度は、数百年にも及ぶ長期持続の歴史と、おそらく一〇年、一五年で分節化もされ得る世代経験の歴史をつなぐ公約数的単位です。逆に言えば、本書が歴史の二五年単位説を提起した重要な目的は、単に未来予測を容易にすることでも、歴史の大きな流れを把握することでもなく、このような公約数を媒介変数的に世代史と世界史の間に置くことで、一つひとつのローカルな世代的記憶と数百年単位の世界の歴史をつなぐ方法論を手にすることだったのです。つまり、この尺度に媒介させることで、それぞれの世代間の継承や断絶が、グローバルな資本主義の長期変動と構造的に結びつき続けてきたことが浮かび上がってくるはずです。また逆に、個人が自分の人生のリズムだけで大きな歴史の変動に挑戦しても、時を得ずに討ち死にしてしまうのが大半ですが、大きな歴史のリズムのなかで時を得た世代的挑戦が歴史を変革していく可能性も、この歴史の尺度は示唆しているはずなのです。